帰順勇士シン・ジュンチョルは北朝鮮行?

Newsmaker

■1983年、南側に帰順した陸軍予備役大領、今年初め、妙齢の女性と中国に・・・
  関係当局数ヶ月間追跡、行方不明

 1983年5月、江原道揚口近隣の非武装地帯を越えて帰順したシン・ジュンチョル(54)予備役陸軍大領が今年初め、中国に出国した後潜行し、関係当局がシン氏の行方を追っている。シン氏は、国内で親しくなった女性1名と同行したものと知られている。

 当局は、シン氏が再入北したか、第3国で北朝鮮人士と接触して、高級軍事機密を流出した可能性が高いものと見て、特別追跡チームを構成、シン氏を捜している。シン氏は、1995年まで国内対北情報業務を総括する国軍情報司令部で領官将校として12年間勤務して転役し、高級水準の数多くの機密を知っているものと伝えられた。

 政府高位当局者は、最近、「シン氏が今年初め、1年の単数旅券を利用、金浦空港を通って中国に行った事実が遅れて明らかになり、関係当局が行方を捜している」とし、「今までシン氏の中国内所在地を把握できていない」と明らかにした。この当局者は、「篤実なキリスト教信者であるシン氏が帰順以後、18年間、韓国体制に良く適応したが、昨年末から突然韓国生活に適応できなくなり、不満を吐露したことがある」と説明した。

 シン氏と一緒に出国した女性の身元と関連して、この当局者は、「現在までの調査結果、同行した女性は、シン氏が京畿道一山の理髪所職員であるものと把握した」とし、「この女性の正確な身元を把握するための調査も、一緒に進行中」と語った。

 シン氏の中国行が単純な痴情行跡ではないという状況証拠も続々と現れている。シン氏は、自身の出国の事実を家族に一切知らせていないという。政府当局は、過去に中国旅行をしたことがないのに、女性まで同行しているシン氏の中国内の所在が我が方の粘り強い努力にも拘らず、数ヶ月間捕捉されていない点を重視、シン氏が某勢力の組織的な保護を受けている可能性が高いものと見ている。これと関連して、また別の政府消息筋は、「現在、シン氏が継続して中国に留まっているか、さもなければ、北朝鮮に再び戻ったのかすら確認されていない」と明らかにした。

■出国事実、家族も全く気が付かないまま

 万一、シン氏が北朝鮮の組織的な保護を受けていれば、彼の脱出行跡は、1967年の「偽装間諜」李スクン事件以後、最大の二重間諜事件となる可能性が高い点において、衝撃を与えている。勿論、シン氏が越南以後、北側により再包摂された可能性も排除することはできない。

 北朝鮮軍第13師団民警捜索大隊参謀長として勤務していたシン氏(大尉、当時36歳)は、李ウンピョン氏(空軍予備役大領)がミグ19に乗って帰順した3ヵ月後の1983年5月、江原道揚口東部戦線非武装地帯を通過、南側に帰順した。シン氏は、当局の調査結果、金日成軍事総合大学主席卒業者であり、金日成の次男である金平日と親しい間で成分が非常に優秀なものと知られている。彼が南側軍人と直接対面している非武装地帯民警捜索大隊で勤務したのも、正にこのように優秀な成分のためだった。

 帰順直後、シン氏は、軍当局の合同尋問に非常に協調的な態度を見せ、陸軍は、帰順3ヵ月後のその年の8月、シン氏を帰順勇士としては初めて、少領に電撃任官させた。また、北朝鮮で既に結婚したシン氏は、少領任官2ヶ月余りで神学校に通っていた韓国女性と結婚、話題となることもあり、国軍情報司令部で対北情報業務を続けて担当し、我が軍に北朝鮮軍に関する相当な水準の各種情報を提供したものと知られている。

■単純な痴情行跡ではない証拠、続々と現れる

 代表的な例として、シン氏は、帰順直後、軍当局に「江原道揚口北方にトンネルがある」という情報を提供、1990年、探索7年目に北朝鮮の第4トンネルを発見するのに、決定的な寄与をした。また、1996年5月、ミグ19に乗って帰順した李哲秀大尉は、当時、「北朝鮮が開戦1週間以内に、韓国全域を完全に占領するための計画を立てた」と明らかにしたことがあるが、これは、既にシン氏が1983年帰順当時、公開した北朝鮮「5〜7日南進作戦計画」を通して知られた事実だった。

 シン氏は、以後、国内で韓国出身一般将校とは比較できない出世街道を走った。少領任官4年後の1987年には中領、またその4年後である1991年には大領に進級し、帰順勇士中において、陸・海・空軍を通して、最も高い階級章を付けた。軍人事法によれば、少領と中領に最小限4年を服務して初めて進級できるように、義務服務期間が定められているが、シン氏は、8年後に少領から大領に2段階進級、最高速で昇進したのである。

 シン氏に対する軍内の信頼度をそのまま反映するように、シン氏は、各種軍原案に対して、自身の見解を自由に披露することもあった。その内、1995年、軍内にひどい衝撃を与えた「士兵達の将校手懐け事件」と関連して、彼は、「今回の事件を置いて、北朝鮮が韓国軍の戦力に対して、誤判断する可能性が恐ろしい。いくら現代的な装備で武装したとしても、精神力と綱紀が劣れば、戦争で勝てないことは、歴史が証明している」と痛いことをちくりと刺しもした。

 シン氏は、帰順以後、篤実なキリスト教信者である夫人の影響を受け、クリスチャンとして旺盛な活動を行った。1968年1.21事態当時、唯一の生存者である金新朝氏が設立した社団法人越南帰順勇士宣教会で副会長職を担当もした。シン氏は又、北朝鮮教会の再建運動及び北朝鮮宣教活動に大きな関心を表明、各種行事を通して、韓国教会が北朝鮮宣教に積極的に参与することを訴えもした。

 シン氏の最近の行跡は、知られていることが余り多くない。関係当局によれば、「脱北者の出入国は、関係機関で担当しており、行跡を良く知っているが、シン氏の場合のように帰順してから長い人々は、徹底した管理が行われていない」とし、帰順者管理がおざなりなことを認定した。

 今までの関係当局の調査結果、シン氏の中国行に同行した女性は、彼が暮らしていた一山にある理髪所按摩士と明らかになった。この女性がいかなる経緯でシン氏と会ったのかは、知られていない。万一、シン氏が再入北すれば、彼女は、彼を助けるために南派されたか、固定間諜として活動する案内員である可能性もある。シン氏の家族は、シン氏とこの女性の関係を全く知らされていない。一山に住んでいるシン氏の夫人を始めとする韓国の家族は、現在、外部の人間と連絡が途絶した状態である。

■二重間諜李スクン事件とは?

 北朝鮮の中央通信社副社長であり、板門店出入記者だった李スクン(当時44歳)は、1967年3月22日、偽装帰順した。予め国連司に帰順の意思を明らかにしていた李スクンは、板門店で国連軍側英国代表であるベン・コプト准将の専用セダンに飛び込んだ後、北朝鮮警務員の銃弾の洗礼を受け、南側に越えて来る脱出劇を行った。

 諜報映画の話題に上る李スクン帰順事件は、その時、「自由大韓の勝利」として全国民の関心事となった。李スクンは、越南定着金と誠金、講演活動とTV出演等で外見上潤沢で、自由な生活を送ったようだった。翌年11月、教授だった李某氏(当時35歳)と結婚までした。

 そのような李スクンがソウルを脱出、1969年1月31日、ベトナム、サイゴンのタンソン・ヌート空港で中央情報部(現国情院)要員により逮捕され、世間をもう1度驚かせた。情報部は、李スクンを金日成の指令を受け、再び北に戻ろうとして発覚した偽装間諜と発表した。彼は、同年7月2日、絞首刑を受けた。しかし、1980年代、李スクンが偽装間諜ではないという関係者の証言が各種言論媒体を通して報道され、李スクン事件の真実は、今までベールに包まれている。

上へ

最終更新日:2004/03/19

テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル